因果応報と自業自得の本当の意味や使い分けは違うのか?
ふだん悪い意味で使っている『因果応報』と『自業自得』。 意味や使い分けに違いはあるのか? 複数の辞書で調べてみました。
因果応報・自業自得 このふたつに大きな違いはない
結論から言うと、因果応報と自業自得は、ほぼ同じ意味で使われており、どちらも元々は仏教用語で仏教の根本的な考え方です。
一般的にはどちらも『悪いことをしていれば悪い報(むく)いを受ける』という意味で使われることが多いのですが、本来仏教では、『良いことをすれば良い報(むく)いを受け、悪いことをすれば悪い報(むく)い受ける』という意味があります。
・善因善果(ぜんいんぜんか)…良い行いをすれば、良い結果がある
・悪因悪果(あくいんあっか)…悪い行いをすれば、悪い結果がある
また、「業(ごう)」にも良い業と悪い業があり、行動だけでなく心や言葉のはたらきも入りますので、思ったり話したことも未来の自分の結果となって現れます。
自業自得には ・自業自縛(じごうじばく)・自縄自縛(じじょうじばく)という言い方もあります。
以下に辞書で調べたものを載せました。参考にしてみてください。
因果応報 〈辞書より〉
〈 広辞苑 第七版 〉 〔仏〕過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること
〈 三省堂国語辞典 第八版 〉 〔仏〕人間の考えやおこないの善悪に応じて、報いがくること。(ふつう、悪い意味に使う)
〈 四字熟語辞典 第四版 Gakken 〉 意味:人の行いの善悪に応じてその報いも善悪にわかれるということ。 注記:仏教のことばで、「因果」は、因縁(原因)と果報(報い)。ある原因のもとに生じた結果・報いの意。一般には、悪い行いに対する悪い報いの方をいうことが多い。 出典:『大慈恩寺三蔵法師伝』七 類語:悪因悪果(あくいんあっか)・自業自得(じごうじとく)
〈 広説佛教語大辞典 上巻 著者:中村元 東京書籍 〉 すべてのものを因果の法則が支配し、善因には善果、悪因には悪果が必ずあるということ。
〈 仏教ことわざ辞典 愛蔵版 著者:勝崎裕彦 渓水社 〉 (因果を含める) 因果とは仏教語で、原因と結果のこと。結果を生じさせるものが因で、その因によって生じたものが果である。原因とそれによって生ずる結果との関係が「因果関係」である。この原因と結果の道理を、しっかりといい聞かせることが、「因果を含める」というさとしである。ものごとや事態のどうしてもやむを得ない状況をよく説明して、仕方がないとあきらめさせるという意味に転じて使われる。
仏教では、「因果応報」という考え方が基本である。つまり、「善因善果」「悪因悪果」という言葉で表現されるように、過去における善悪のなしわざが原因となって、現在における幸不幸の結果を招き、現在におけるなしわざに応じて未来の果報が決定する。このなしわざが業であり、それによって過去・現在・未来という三世に及んで「生死輪廻」の因果関係で結ばれている。まさに「因果輪転」「因果は車の輪の如し」「因果は巡る車の輪」「因果は回る」「因果は巡る」ということで、ものごとの原因と結果は、車輪が回転するように回りめぐってくる。
ところで因果という言葉は、とくに悪行の果報である不幸な状態、不運なめぐりあわせ、悪運といった悪い意味合いで使われることが多い。まことに因果な言葉である。不運・不幸なもののことを、「因果者(いんがもの)」といった。「因果歴然」「因果覿面(いんがてきめん)」とは、悪事の報いがたちまちに目の前にあらわれること。「因果が蹲(つくば)う」「因果の蹲い」とは、悪事の報いから絶対に逃れることのできない網や綱があるということ。まったく因果応報の理法に仮借はない。まして、「因果の百年目」というようなことになれば、とうとう眼前にやってきた過去の悪事の報いで、絶体絶命の苦境に立たされることになる。英語でも、Such a life such a death.(生き方が生き方なら、死にざまも死にざま)などという。
しかも実際には、「因果の端」で悪運がはじまりだすと、まさしく「因果の小車」。小さな車の回転のように、因果はまことに早くめぐってくる。「因果は皿の縁」「因果は皿の端」であって、因果は皿のふちを一周するように、これまた早いのである。
だから、よくよく「因果を含める」のである。「因果と影法師は付いて離れず」である。かならずついて回る因果であってみれば、やむなくも納得せざるを得ない。それが道理というものだろう。こうしてみると因果を含められてしまった不運なもの同士、お互いに肩寄せ合って慰め合い、いたわり合って生活して行こうという知恵も生まれてこよう。すなわち、「因果どうしの寄り合い」という構図である。
自業自得 〈辞書より〉
〈 広辞苑 第七版 〉 〔仏〕自らつくった善悪の業の報いを自分自身で受けること。一般に、悪い報いを受けることをいう。 自業自縛
〈 三省堂国語辞典 第八版 〉 〔仏〕自分の(悪い)おこないの結果を自分の身に受けること。 「ーーとあきらめる」
〈 四字熟語辞典 第四版 Gakken 〉 意味:自分の行いの報いが、自分に返ってくること。通例、悪い行為についていう。身から出た錆 注記:もとは仏教のことばで、自分のした行いに対して、自らがその責めを受けるということ。「業」は、行為・行いのことで、悪行と善行がある。 類語:因果応報(いんがおうほう)・向天吐唾(こうてんとだ)・自縄自縛(じじょうじばく)
〈 広説佛教語大辞典 中巻 著者:中村元 東京書籍 〉 ①自ら業をつくって自らその果報を受け取ること。よきにつけ、悪しきにつけ、自分が行った行為の報いを自分が受けること。一般的には特に悪行の報いである苦しみをわが身に受ける場合にいう。〈『往生要集』上大八四巻三四上〉「自業自得の道理」〈『正像末和讃』〉 ②自分のしでかしたことだから、悪い報いを得てもやむを得ない、ということ。〈『十訓抄』10〉
〈 仏教ことわざ辞典 愛蔵版 著者:勝崎裕彦 渓水社 〉 自分の行ったこと、自分の作ったことで、後になってその報いを受けること。「自業自縛」とも「自業自得果」などともいう。みずからの播いた善悪の種で、いずれ善悪の報いを結果として受けることになるわけであるが、ことわざとしては、概して悪いことの戒めに用いられている。つまり、悪い行いをすれば、その結果としてかならず悪い報いがはね返ってくるものであるという。「身から出た錆」「天に向かって唾を吐く」「天を仰いで唾する」などともいわれるように、いずれにしても自分に振り返ってくるもので、「因果応報」「因果歴然」を主張する仏教思想の基本でもある。
業 〈辞書より〉
〈 広辞苑 第七版 〉 ①〔仏〕(梵語 karman 羯磨 かつま)㋑行為。行動。心や言語のはたらきを含める。善悪の業は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説。「業苦」「因業」⇔ 果報 ㋺業の果報。「業病」 ②業腹(ごうはら)の略。 →ぎょう(業)
因果応報・自業自得の類義語
身から出た錆(さび)
刀は手入れを怠ると錆びて使えものになることから、自分の悪い行動から不利益をこうむること
天に向かって唾を吐く 天を仰いで唾する 仰天吐唾(こうてんとだ)
他人をおとしいれようとして唾を吐いても、やがてそれは自分に返ってくること
情(なさ)けは人の為ならず
人に親切にしておくと、巡りめぐって自分に良い報(むく)いとなって返ってくるということ
獣(しし)喰った報(むく)い
神の使いである獣(けもの)(主に鹿やイノシシ)の肉を食べるという悪事(快楽)をはたらいたため、その罰(報い)を受けることになるということ
(自分で)蒔いたたねは、(自分で)刈り取らねばならない
自分でやってしまったことの責任は自分で取らなければならないということ
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